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よしもとばななさんのエッセー
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下北沢のこと よしもとばなな
絵=原マスミ
例えば駅ビルの存在が悪いとは思わない。
大型書店もあるし、レストランもあり、大勢の人が出入りできて多分便利なのだろう。開発は悪い面ばかりではないのだろう。
しかし、今せっかく面白い、わくわくする、どきどきする、ピカピカでない使い込まれて街の空気や住人が時間をかけて作った何かがなくなり、ちっとも面白くなくなるに決まっている。駅ビルを建てる意義のあるのは、古い区画が保存されることが保障されている、大きい街だけではないだろうか?
だいたいどうせ駅ビルの元会社と関係があるテナントしか入らないので、面白くも何ともない。その面白くない考えといったら、日本中の駅前のすばらしい風景を、どこへ行ってもいっしょ、同じお店がコンビニのように入り、そこそこおいしかったりそこそこ安いどうでもいい、いつでもとりかえのきくものでいっぱいにしてしまった。
下北沢がそんなふうになるなんて信じられない。
しかし、再開発がまだ進んでいないはずなのに、じょじょにそうなっていっているではないか。
とりかえのきかない店がどんどん減っているではないか。
これが時代なのだろうか?
でも、例えばとりかえのきくお店で働く人たちが「下北沢は楽しい、下北店でないと働きたくない」というような場所にしていくことも大切だと思う。
私は、さんざん開発され、高層マンションの建ち並んだ下町からこちらに越してきた。
自分のふるさとがぐちゃぐちゃになってしまう気持ちをたっぷりと味わったことがある。だからもうあんな気持ちをだれにも味わってほしくない。
それでも下町は観光地だから、まだ助かっている部分もあるのだ。
この「観光地作戦」も、弊害はあるが、かなり有効だと思う。
昔、私の家は鍵をかけていなかったし、となりの家に届け物をして留守だったら、ドアをあけて玄関先に置いてくることができた。どの家も机の上にお茶請けがいつだって置いてあり、ちょっとあがりこんでおしゃべりすることができた。子供は路地で大人全員の目が届くところで安全に遊び、不審な人物が入ってきたら誰かが必ず気づいた。
そんな時代はもう戻ってこないかもしれない。
でもそんなふうに暮らしてい行く気概のある人たちを、いつかこの世から追い出すことができると、このいやな時代を作っている存在たちはほんとうに思っているのか?
少し前、行きつけのお店に座っていたら、若いバイトの女の子のお友達が来たらしく、お茶を出しながらちょっとふたりはお話ししていた。
「ここのバイトどう?楽しい?」
「うん、楽しいよ。でもすごいの、だって二時間以上いるお客さんを追い出さないんだよ! あとから人が来ても、追い出さないの!」
「え〜? お店って二時間以上いたらいけないんだよね? たいてい決まりがあるよね?」
ありませんよ! と私は心の中で突っ込んだ。
「私もそう思ってた! でもここは違うの。だって、読書とか編み物とかはじめちゃう人がいるんだよ! お店なのに!」
いちばんのびのびした世代のはずの人たちをこんなふうにしてしまったのはいったいだれなんだ?
私たち大人なんじゃないか?
だったら、せめてこの街ではもうこんな会話がありませんようにと思う。
「セットのウーロン茶ではなくて、どうしてもレモンスカッシュが飲みたいので、単品でお願いします。」
と言うとおろおろしてしまう若い店員さんもよくいる。
「それでは厨房にきいてまいります」
そして戻ってきて、
「聞いてみましたけれど、セットのお飲み物は変えることができませんので、ウーロン茶も出させていただきます」
などといい、目の前にはウーロン茶とレモンスカッシュがいっぺんに並ぶことになる。
「いや、このウーロン茶はもったいないからつけなくていいです」
というと、おおまじめに、
「返金できないのですが、ほんとうによろしいのでしょうか?」
などと言われる。
人間はロボットじゃないから、毎日飲みたいものは違うんだ、安かったらなんでも受け入れると思ったら大間違いなんだ、返金してほしいから飲み物を換えろとごねるような人ばかりじゃないんだ。人は、自由なんだ! セット以外の飲み物くらい、ほんの小さな自由かもしれないがとても大切なことなんだ。
下北沢を、そんな堅苦しいロボットの街にしたくない。
どんな歳の人ものびのび過ごし、楽しめて開放感を味わえる街であってほしい。
地元の店を安くテナントとして率先して入れるような気概のある解決法は、日本の文化度では望めない。上野ではまさにそういうことが起きた。人々が最も愛していた立ち飲み屋が真っ先に駅から消えたのだった。
確かに下北駅前の市場は消防法から見て問題点があるだろう。ないと思う人はあれを一度上から見て見てほしい。すごいことになっているから。しかし、だからと言って全部取っ払えばいいという考えは乱暴すぎないだろうか。都が援助してそこそこの外観を残しながら観光地として保存する技術があるのではないだろうか。その大切なことのために多少お金がかかっても。だれかのつごうにとってよくなくても。そのつごうは倫理や未来や街への愛情ではなくって、どうせお金の話なんだろう?もうそんなものにへいこらするのはうんざりだ。
うまくいっている人たちはには関係ないことなのだろう。資本があり、生活もうるおい、社交的で、何店舗も出せるような人たちにとっては「ここがだめなら場所をずれてやればいい」っていうことになるだろう。下北沢でなくてはだめだという人たちでないなら、いろいろ勝手な抜け道を探せるだろう。
そうでなくても、人として大丈夫な人たちは、どこに住んでいようと必ず自分で道を切り開く術を知っているだろう。
しかし、そういう人ばかりではないのだ。だめで、弱くて、しおれていて、どんどん傾いていって、抜け目なく立ち回ることができなくて、ただうろうろ生きている、そんな人たちを責める社会、これほどくだらないものはない。そういう人たちがときにうとまれながらどこかで許され、愛され、役割を果たしてなんとかひっかかっている社会こそが大切なのだと思う。
細かいところを見たらきりがないくらいに双方に言い分があり、危険なやりとりもあり、どちら側にもいい人もいやな人も当然いるだろうから一概に言えないけれど、下北沢の再開発の話は、効率よくお金を稼げるおいしい場所を食い物にする人たち、どうせそのお金と共に他の場所に移っていく人たちが、そのために多様性がありしかしリスクもあり生きにくい人たちを切り捨てたいといういやな世界観の典型的な発想だと思う。
こんなにうまく機能しているはずの場所を、なぜそこに住んでいる人たちの声を無視してまで変えなくてはいけないのだろう。
ではなにができるのだろうか?
裁判の話と駅前の工事の話は、とことん調べてないので私には今言及することができない。活動する人たちのための意気をあげる祭りや集金や世間に知らしめるための行動としては、文化的なイベントももちろん有効だろうと思う。
でもなによりも大事なのは、このおかしな時代の中で、この街に残っている「なにを」守りたいかということをひとりひとりが真剣に考え、そのためには多少の不便や、めんどうくささや、人と関わるわずらわしさを受け止めて、この町の良さを残していこうとすることだろうと思う。
良い考えを持っているのに時代の趨勢でつぶれそうな店には少し遠くても、多少お金がかかっても、効率が悪くても、足を運ぼう。都知事に手紙を書こう。行ける人は裁判に行って反対しよう。観光地になってわずらわしくてもいいから、貴重な建物は残そうとしよう。よその街から観光に来た人たちに親切にしよう。個性的な場所を保存していこう。他の街にもっといい物件が見つかっても、この街に住み続けよう。気の合う友達をこの街に呼ぼう。住んでもらおう。それぞれの形でここへの愛を表明しよう。
私のように表現する仕事の人は社会活動に参加するしないで責め合うのではなく、ここのよいところを表現し続けよう。反対の苦しい声を上げるばかりではなく、ここのすばらしさを描き歌い続けよう。
この場所を愛して自分の歩く一歩一歩が、交わす挨拶のひとつひとつが、必ず実を結ぶと信じ続けよう。
もしここにいる全員がそれを自分のこととして実行することができたら、大きな力に思えるのに、万が一現実的には負けてしまったとしても、必ずなにかが残るはずだ。その何かは永遠に死なない。
(平成20年7月13日、記)
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